北大路 魯山人きたおおじ ろさんじん
1883年3月23日 — 1959年12月21日(76歳没)
星岡茶寮 主宰/陶芸家・美食家
書・篆刻・陶芸・絵画・料理を一身に貫いた近代日本屈指の異才。1925年から会員制料亭「星岡茶寮」を主宰し、自ら厨房に立ち、料理に合わせるための器を窯を起こして焼いた。「食器は料理のきもの」という一語に集約される、料理と器を分かたない美意識を、雑誌『星岡』をはじめとする膨大な文章とともに残した。
編集メモ
北大路 魯山人を異才列伝で立項する理由は、その活動領域の多さではなく、活動領域を貫く思想の一貫性にある。書、篆刻、陶芸、絵画、料理。普通であれば一生のうちひとつ極めれば足りる領域を魯山人は横断し、しかも素人芸ではなく、いずれもその道の専門家から評価を得る水準で残した。横断を可能にしたのは器用さではなく、「料理と食器は車の両輪である」(『料理一夕話』)と本人が述べた、表現の総体を一人で設計しようとする美の思想である。
同時代の評価が分かれた人物でもある。会員制料亭「星岡茶寮」を当代随一の地位に押し上げた料理長としての名声と、最終的に共同経営者から解任された強烈な性格とが、生涯に同居した。本ページでは、人格評価ではなく、本人が雑誌『星岡』に書き残した文章と、戦後に編まれた中公文庫の選集(『魯山人味道』『魯山人陶説』ほか)を出典として、魯山人の思想と業績を記述する。
あわせて、魯山人の料理思想を最も端的に体現する一例として、生前から「魯山人風」として知られる「すき焼き」を取り上げる。これは戦後の一般的なすき焼きとは作法も食べ方も異なる。本人が雑誌『星岡』に残した記述を起点に、その作法と背後にある思想を読み解く。
略歴
- 1883年3月23日京都府愛宕郡上賀茂村(現・京都市北区上賀茂)に上賀茂神社の社家・北大路清操の二男として生まれる。本名は房次郎。出生前に父が死去
- 1888年木版師・福田武造の養子となる
- 1893年京都市梅屋尋常小学校(現・京都市立御所南小学校/新町小学校に統合)を卒業。丁稚奉公に出される
- 1904年日本美術協会展に「千字文」を出品し一等賞二席を獲得。書家としての才能を世に示す
- 1905年上京し、書家・岡本可亭に師事。書・版下・篆刻で独立
- 1908年朝鮮に渡り、統監府(後の朝鮮総督府)の書記となる。書道・篆刻の研究を進める
- 1915年頃金沢の山代温泉で漢学者・細野燕台の知遇を得る。同地で初代須田菁華と出会い、作陶の手ほどきを受ける
- 1919年同郷の中村竹四郎と東京・京橋に骨董・古美術商「大雅堂藝術店」を共同で開く
- 1921年大雅堂藝術店の2階に会員制食堂「美食倶楽部」を開く。号「福田大観」
- 1922年「北大路魯山人」と号する
- 1923年関東大震災で大雅堂藝術店および美食倶楽部が焼失
- 1925年3月20日赤坂山王台の旧「星岡茶寮」(明治14年創立)を、中村竹四郎を社長、自身を顧問兼料理長として会員制料亭「星岡茶寮」として再興
- 1927年神奈川県鎌倉郡山崎(現・鎌倉市山崎)に「星岡窯」(魯山人窯藝研究所)を築窯。荒川豊蔵を窯場主任に迎える
- 1930年雑誌『星岡』を創刊。星岡窯と星岡茶寮の活動を支える発表の場とする
- 1935年大阪・曽根に「大阪星岡茶寮」を開設
- 1936年運営方針の対立から、中村竹四郎により星岡茶寮の顧問兼料理長を解任される。以後は鎌倉・山崎の星岡窯にこもり、作陶と執筆に専念
- 1945年東京大空襲で星岡茶寮が焼失
- 1954年ロックフェラー財団の招聘で渡米し、欧米各地で展覧会と講演会を行う。携行した約200点の自作陶器のうちの一部をニューヨーク近代美術館に寄贈。南フランスのヴァロリスとヴァンスでパブロ・ピカソ、マルク・シャガールに会う
- 1955年文化財保護委員会から、織部焼の技術で重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を打診されるが辞退
- 1959年12月21日横浜市立医科大学(十全病院)にて肝硬変のため逝去。76歳
関連組織
星岡茶寮(ほしがおかさりょう)
明治14年に三野村利助・奥八郎兵衛・小野善右衛門らが日枝神社境内に設立し、岩倉具視ら華族・政官財の社交場として運営されていた茶寮。大正期に経営が傾いた後、関東大震災後に再興を引き受けた中村竹四郎と北大路 魯山人が、1925年(大正14年)3月20日に会員制料亭として再開した。中村が社長、魯山人が顧問兼料理長を務め、料理・器・調度・接客の作法まで魯山人が一手にプロデュースした。最盛期の会員数は2,000名超に達したとされ、政財界の社交場として広く知られた。1936年に魯山人が解任され、1945年の空襲で建物が焼失して幕を閉じた。
星岡窯(せいこうがま/魯山人窯藝研究所)
星岡茶寮で出す料理の器を自ら焼くために、魯山人が1927年に鎌倉・山崎に開いた窯。荒川豊蔵を窯場主任として招き、敷地内に魯山人の蒐集品を陳列する「古陶磁参考館」と茶室「夢境庵」を併設。「坐辺師友」(古名品を傍らに置いて師とする)を理念とし、織部・志野・黄瀬戸など美濃焼系、乾山・仁清・道八など京焼系をはじめ、備前・信楽・瀬戸まで作域を広げた。星岡茶寮解任後はここを主たる制作と生活の拠点とし、晩年まで膨大な作品を残した。
代表的な著書・提唱概念
提唱概念・美の思想
食器は料理のきもの
出典:北大路魯山人「食器は料理のきもの」(『魯山人味道』中公文庫、平野雅章編、1995年改版)
魯山人の思想を最も端的に表すのがこの一語である。料理は皿に盛られて初めて完成する。盛り付けられる皿が貧しければ、どれほど吟味された料理も貧しく見える。料理人が料理だけを考え、器を市販品で済ませることへの、魯山人の生涯にわたる批判はこの一点に発している。料理が「身」であれば、食器は「きもの」。両者が相応の格をもって出会わなければ、卓全体は完成しない。星岡茶寮で出す料理の器を自ら窯を起こして焼いた背景には、この信念がある。
同じ思想は、書・篆刻・陶芸・絵画にも貫かれた。魯山人にとって料理だけが芸術なのではなく、芸術と料理は同じ「美」の問題系の中にある。料理は道理を料るものであり(『料理は道理を料るもの』)、器は料理と一体になって座を組み立てる。多領域にわたる活動は、ひとつの美意識が領域を変えて現れたものと見るのが自然である。
魯山人風すき焼き
魯山人が雑誌『星岡』(1933年、底本『魯山人の美食手帖』所収「料理メモ」)に残した「牛肉屋のすきやき」の項は、ごく短いメモ書きながら、戦後一般化したすき焼きとは決定的に異なる作法を伝える。料理が一律に「鍋でグツグツ煮る」方向に流れていく時代に、魯山人は、すき焼きが本来「煮る」料理ではなく「焼く」料理であり、肉と野菜は分けて扱うべきものだという立場を取った。これは魯山人の料理思想を最も具体的に体現する一例である。
ロースやヒレを食う時は肉の両面を焼くべからず。必ず片面を焼き、半熟の表面が桃色の肉の色をしているまま食べること。
出典:北大路魯山人「料理メモ/牛肉屋のすきやき」(初出『星岡』1933年。底本『魯山人の美食手帖』グルメ文庫、角川春樹事務所、2008年)
ロース、ヒレはタレをよくつけて鍋で焼く。汁の中に肉を入れるのではない。
出典:同上
この二つの短文に、魯山人風すき焼きの核心がある。鍋は「煮る」装置ではなく「焼く」装置として用いられる。肉の両面を焼き切れば中まで火が通り、肉本来の旨みが汁に逃げてしまう。だから片面のみを焼き、表面が桃色に変わった時点で食べる。タレに浸して鍋で焼く。汁の中で煮込まない。ここまでが一連の所作である。
肉と野菜を分ける構造
魯山人風すき焼きのもう一つの特徴は、肉と野菜を同時に鍋に入れない点にある。本人は「豆腐、ねぎ、こんにゃくなど、いっしょにゴッタ煮する書生食いの場合は別」(同上)と書き、肉・豆腐・ねぎ・こんにゃくを同時に煮込むスタイルを「書生食い」と呼んで明確に区別した。理由は単純で、肉を入れた汁で野菜を煮ると、野菜の青臭さや水気が肉の旨みを薄め、逆に肉の脂が野菜の持ち味を覆ってしまうからである。
したがって、まず肉だけを少量のタレで焼いて食べる。肉を一通り食べ終えてから、鍋に出汁を足し、豆腐・葱・春菊・椎茸など野菜と豆腐を入れて、こんどはこれを「煮る」料理として食べる。一つの鍋の中で、前半は「焼き物」、後半は「煮物」が、肉と野菜の順序を分けることで成立する構造になっている。
割り下と甘味についての立場
戦後の一般的なすき焼きで多用される、砂糖を効かせた「割り下」を、魯山人は基本的に好まなかった。本人は別の文章で「砂糖の乱用が各々の持つところの異なった味を破壊し、本質を滅茶苦茶にしている」と書き、砂糖でまとめる味の組み立てそのものに批判的だった。魯山人風のタレは、生醤油(きじょうゆ)に三割ほどの酒、味醂はごく少量。甘味は素材自体(牛肉、葱、椎茸)から出るものに任せ、調味料で甘さを足さない。
「東京の牛肉屋のタレは悪い。出来合いのタレの中に三割くらいの酒と、甘いから生じょうゆ一割くらい加えること」(同上)という処方も残されている。これは当時の牛肉屋のタレが既に甘過ぎたため、酒と生醤油で薄めるという、戦前期ならではの実用的な指示である。
葱と春菊の扱い
魯山人は野菜の下処理にも独自の作法を示している。葱は「けちらないで必ず一皮剥く」、春菊は「歯に残りそうな部分は外しておく」。前者は外側の繊維質の固さを嫌い、後者は口内や歯間に繊維が残ることを嫌ったためである。葉物は鍋の汁が煮立ってから入れ、煮立つ前に投入してはならない。煮立つ前に入れると出汁が青臭くなる、というのが理由である。これらは料理の合理性に基づいた指示であり、本人が繰り返し説いた「料理は道理を料るもの」という考え方の具体例である。
魯山人風すき焼きが意味するもの
魯山人風すき焼きは、レシピというより一つの美意識の標本である。素材ごとに最適な火の入れ方は違う。肉は焼く料理、野菜は煮る料理である。それを一つの鍋で同時に行うのは便宜であって、料理としての筋ではない。便宜を優先して全部を一緒くたに煮るのが「書生食い」であり、筋を通して肉と野菜を分けるのが「料理」である。卓上で本人がまず最初に肉を焼き、客に食べさせ、続いて野菜を煮る。そのプロセスを一座で共有することそのものに価値が置かれている。
戦後、すき焼きは家庭料理として広く普及する過程で、割り下と肉野菜の同時投入を前提とした簡便な形に収斂した。魯山人風はその対極にある。手数がかかり、鍋奉行を要し、一座の主導者がいなければ成立しない。だからこそ、星岡茶寮の卓上で魯山人自身が振る舞った料理として、伝説的に語り継がれてきた。漫画『美味しんぼ』(雁屋哲・原作)の海原雄山が魯山人をモデルとし、作中で「魯山人風すき焼き」が繰り返し言及されたことも、この料理が大衆的に知られる契機の一つとなった。
主要著書
魯山人は生前、雑誌『星岡』(1930–1936年)に膨大な料理論・芸術論・書論・陶論を寄稿したが、これらを単行本として体系化することは生前ほとんど行わなかった。現在広く読まれる「魯山人の著書」の大半は、没後に編まれた選集である。中公文庫の以下4冊は、本人の文章を主題別に編んだ標準的な選集として流通している。いずれも編者は平野雅章。
魯山人味道
魯山人の料理論・食材論を主題別に集成した選集。鼈・河豚・鮎・鮭・きのこなど食材ごとの記述に加え、家庭料理論、料理人論、料理屋論、海外食体験記までを収める。「魯山人風すき焼き」の出典「料理メモ」、本ページの提唱概念引用「食器は料理のきもの」もここに収録されている。
魯山人陶説
陶芸家としての魯山人による作陶論・古陶磁論の選集。織部・志野・備前・乾山・仁清・道八・須田菁華といった作品系統への論評、自身の制作観、星岡窯の運営思想までを収める。陶芸を「料理の伴侶」として位置づける視点が一貫している。
春夏秋冬 料理王国
「料理王国」のタイトルで知られる魯山人料理論の代表編。料理という営みを四季の食材と座の構造から捉え直し、料理人と食べ手の関係、料理と器の関係、料理と季節の関係を体系的に論じる。冒頭の「序にかえて」は青空文庫でも公開されている。
魯山人書論
書家としての魯山人による書論集。良寛・牧渓・柳宗悦などへの論評、書と人格の関係、書における「うまさ」と「よさ」の区別など、書を「美の総体の一部」として位置づける独自の視座を示す。料理論・陶説と並べることで、魯山人の思想が領域横断的に一貫していることが見て取れる。
系譜・関連人物
中村 竹四郎(なかむら たけしろう)
京都の美術印刷会社・便利堂の四代目当主。1919年に魯山人と東京・京橋に大雅堂藝術店を共同で開き、1925年には星岡茶寮の社長として再興を主導した。激しい性格の魯山人と対照的に温厚な人物で、両者は「雲と龍」と評された。1936年、運営方針の対立から魯山人を解任。星岡茶寮100年に当たる2025年、便利堂主催で記念展「雲と龍——中村竹四郎と北大路魯山人——と星岡のうつわ」が開催された。
細野 燕台(ほその えんたい)
金沢の漢学者・数寄者で、書・画・詩文をよくした多芸の趣味人。窪田朴了軒の紹介で知り合った魯山人を山代温泉に連れ、太田多吉・吉野治郎・初代須田菁華といった旦那衆に引き合わせた。魯山人が陶芸の世界に踏み込む直接の起点をつくった人物。後に星岡茶寮の顧問を務めた。
荒川 豊蔵(あらかわ とよぞう)
魯山人が1927年に鎌倉・山崎に星岡窯を開いた際、窯場主任として招かれた陶芸家。星岡窯で魯山人の作陶を支えながら独立への準備を進め、1930年(昭和5年)、岐阜県大萱の牟田洞で志野の陶片を発見、桃山陶研究の端緒を開いた。後に独立し、志野・瀬戸黒の重要無形文化財保持者となる。魯山人が辞退した「人間国宝」の地位を、別の領域で受けた人物にあたる。
公式リンク集
出典・参考資料
- 東京文化財研究所「日本美術年鑑」物故者記事「北大路魯山人」(生年月日・没年月日・経歴の主たる典拠)
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」北大路魯山人(生没年月日・出生地・本名の確認)
- 足立美術館 公式サイト 北大路魯山人解説ページ(経歴・作風の確認)
- 北大路魯山人「料理メモ/牛肉屋のすきやき」初出『星岡』1933年(昭和8年)。底本『魯山人の美食手帖』グルメ文庫、角川春樹事務所、2008年4月18日第1刷。青空文庫にて公開(作品ID:50011)
- 北大路魯山人「食器は料理のきもの」底本『魯山人味道』中央公論社・中公文庫、1980年初版・1995年改版。青空文庫にて公開(作品ID:54979)
- 北大路魯山人「すき焼きと鴨料理――洋食雑感――」(1954年)底本『魯山人味道』中公文庫。青空文庫にて公開(作品ID:54972)
- 北大路魯山人「料理一夕話」「美味放談」「料理は道理を料るもの」ほか、青空文庫所収本人著作
- 『魯山人味道』平野雅章編、中公文庫、1995年改版、ISBN 978-4-12-202346-8
- 『魯山人陶説』平野雅章編、中公文庫、ISBN 978-4-12-201906-5
- 『春夏秋冬 料理王国』平野雅章編、中公文庫、2010年、ISBN 978-4-12-205349-6
- 『魯山人書論』平野雅章編、中公文庫、ISBN 978-4-12-202688-9
- 『魯山人著作集』全3巻、五月書房、1980–1981年(中公文庫各書の親本)
- 株式会社便利堂「星岡茶寮開設100年記念《雲と龍――中村竹四郎と北大路魯山人――と星岡のうつわ》展」開催情報(中村竹四郎と魯山人の関係および星岡茶寮再興年の確認)
- しぶや黒田陶苑「北大路 魯山人 陶歴」(年譜の補助典拠)
- 天平堂「北大路魯山人」年譜(星岡窯・荒川豊蔵関連の補助典拠)

